註
(1) 当初、ピッチャーは腕を腰から上にあげてボールを投げることが禁止されていた。一八六七年、変化球−−カーブ−−が投げられるようになり、八三年にサイドスローが、八四年、オーバースローが許可され、スピット・ボールも許される。スピット・ボールは、ボールを素手以外の部位で擦ってツルツルにしたり、ボールに傷をつけたり、唾液やワセリンなどの異物を擦りつけて鋭い変化を与える投球のことである。島秀之助は、『プロ野球審判の眼』の中で、アメリカ滞在中の一九三一年に見たスピット・ボーラーを次のように記している。「投手板上でグラブの中へボールを包むようにかくして、顔を近づけてかじるような格好をして唾液を塗る投球準備動作中の様子は、今までに見たこともないだけに奇異の眼を見張ったものである。相当量塗るらしく、投球した瞬間に唾液が飛ぶこともあったし、太陽光線を受けて時に光ることもあったように思った。打者の近くへ来て球に鋭く曲がったり落下したり変化するため、打者にとっては非常に打ちづらいようであった」。ベーブ・ルースもスピット・ボールには非常に手こずったという。一九一〇年代後半、スピット・ボールは条件的に禁止される。その条件は、それまでスピット・ボールを投げていたピッチャーは登録し、彼らだけは従来通りの投球を認めるというもので、スピット・ボーラーの自然消滅を狙ったのである。スピット・ボールが禁止された理由ははっきりしないが、ロン・ルチアーノの『アンパイアの逆襲』によると、コントロールをつけにくく思わぬ変化でバッターが怪我をしやすいためらしく、今日でもアメリカではスピット・ボールを投げている投手は多いようである。例えば、三百勝投手ゲイロード・ペリーにいたっては『私とスピット・ボール』なる本まで出版している。そういう歴史を経ているためか、日本では直球と変化球、アメリカにおいては速球と変化球という区分になっている。スライダーやシュートは日本では変化球だが、アメリカにおいては速球に分類されている。日本でも球威の衰えたベテラン投手がスピット・ボールを使っているけれども、現役の間、プロの技術として誇ってよいはずなのに、真のファンが少ないという不幸な環境のため、彼らはこのことに関して口を開くことはない。
(2) 九四年に日本プロ野球初の二百本安打を達成したイチローのバッティング・コーチとして知られる新井宏昌は次のように述べている。「名球会に入ってらっしゃるような方と自分とじゃバッティングに対する価値観が違うような気がするんです。僕はその日4打席あったら4打席、全部バットの芯で打ちたいというバッターなんです。たとえば4打席1ポテンヒットよりも、4打席全部いい当りのアウトの方が満足できる。僕のバッティングの基本は来たストライクをとにかくバットの芯で捉えること。バッターボックスというのは、送りバントやエンドランのサイン以外はすべて自分の自由にできる場所のことでしょう。だったら僕は自分のバッティングを思う存分楽しめればそれでいい。ヒットは楽しみの延長線上にあるものだと理解しています」。こうした発言は新井が長嶋以後の野球を理解していることを示している。われわれは名球会を長嶋以前の野球のアナクロニズムの極みと笑い飛ばさなければならない。新井はボールを解剖してバッティングのコツをつかんだと言ったり、バットの芯にマジックで目を描いて打ったりするなど、風貌に似合わず、ユーモラスだった。それを見たあの偉大なレロン・リーも真似をしたが、空振り三振をしてベンチに戻った際、目薬をバットの目にさしていたのは楽しかった。九六年のベイスターズの斎藤隆は、その意味で、素晴らしかった。この豪球投手は、セ・リーグにおいて、一試合の平均も含めて奪三振王、被安打率は最小でありながら、与死球王で、本塁打配給王という最も印象深い記録を残してくれたのだ。われわれはこういう「青い空を白い雲がかけてった」(あすなひろし)ような選手こそ愛するのである。
(3) 「野球害毒論」とは、玉木の『プロ野球大事典』によると、東京朝日新聞に連載された「野球と其害毒」のことである。執筆者としては新渡戸稲三らがいた。それから四年後、同じ朝日新聞は全国中等学校野球大会を開催するにあたって、「野球害毒論」を否定するための自己欺瞞的な社説を掲げ、さらに、大会で試合前にホームプレートをはさんで礼をするという汚らしい儀式を制定したりなどして、野球の道徳的意義を極めて反動的に強調し、その病的な弊害は今日においてもなお続いている。
 一七四四年、ロンドンで発行された『小さなかわいいポケットブック』には、「ベースボール」という言葉が使われていた。野球は、アメリカに渡ってから、都市の住民の娯楽として楽しまれてきた。最初は、上流階級の楽しみだったものの、街中で行われていたため、窓のガラスを割るなどのトラブルがあり、野球発祥の地という伝説があるクーパーズタウンにおいては、タウンボールと呼ばれていた野球が禁止されたほどだった。ニューヨークの消防士で銀行員のアレキサンダー・カートライトがルールを編纂した。一八四六年、ハドソン川をはさんでマンハッタンの向こう側にあったエリジアン・フィールドで行われた史上初の野球の公式戦で、最初の野球チーム、ニューヨーク・ニッカボッカーズはクリケットのチーム、ニューヨーク・ナインに二三対一でボロ負けした。ところが、この試合によって、ニューヨークで野球ブームに火がつき、多くの球団が設立された。野球へのスポット・ライトの中心がニューヨークであるのは、このためでもある。チームは、主に、職業別によって編成されていた。職業が問われなくなるのは、プロ化、すなわち選手に給料が払われるようになって以降である。一八五八年、全米野球選手者協会が結成され、アマチュアリズムを掲げた。「選手者」という言葉が使われているのは、まだ統一化・標準化された野球という概念が形成されておらず、ゲームの数だけ野球のルールがあるという状態だったからである。あるゲームでは帽子での捕球が認められているが、別のゲームではそれが禁止されているという有様だったのだ。一八四八年にマルクス=エンゲルスが『共産主義者党宣言』というタイトルで発表したのも、同じ理由であろう。組織によって統一ルールを決めるようになって以後、「プレーヤーズ」が使われる場合、オーナーに対する労働者という意味になる。ゴルフが民衆の娯楽から紳士のスポーツと変わったのとは逆に、野球は、徐々に、上流階級の気晴らしから「国民的娯楽」になっていく。
 野球は、南北戦争をきっかけに、全米中に広まった。従軍した兵士が野球を故郷に持ち帰ったのである。一八六九年、ハリー・ライトがつくったシンシナティ・レッドストッキングスがプロ球団を宣言して旗揚げすると、プロ化が進んだ。ハリーは新しい産業を起こし、雇用を生み出したのである。しかし、次第に、賭が横行し、相場師が手を出し始め、野球の人気は低下した。一八七六年、人気をとり戻すために、ナショナル・リーグが結成され、ウイリアム・ハルバート会長は選手の保留条項を設定した。FA制度はこの保留条項に対する反発だった。ナショナル・リーグは中産階級以上が観客であり、一八八二年に中西部の球団が結成したアメリカン・アソシエーション・リーグは、料金が安く、日曜日も試合を開催し、客席での飲酒が認められていたため、労働者階級が足を運んだ。一九世紀では、ブルジョアとかプロレタリアートといった階級概念が中心で、家族という概念は、階級概念が崩壊し、大衆の世紀になってから見出された概念なのである。このころ、多くの黒人選手がリーグに在籍していたが、一八八四年、紳士協定によって、締め出された。経営者側の横暴さに耐えかねて、一八八九年の一年間だけ、大学で法律を学んだジョン・ウォードを中心に。選手の自主運営によるプレーヤーズ・リーグが存在した。一八九一年、ナショナル・リーグはほかのリーグを吸収し、大リーグを宣言した。だが、一部のチームの一方的な勝ち、選手の乱暴なプレーやスキャンダル、オーナーの拝金主義的経営により、恐慌が起こったこともあって、野球の評判は著しく悪化した。一九一九年のワールド・シリーズの八百長により、「シューレス」ジョー・ジャクソンを含む八人の選手が追放されたブラックソックス・スキャンダルも、結局、このオーナーの横暴が原因だった。いくら活躍して、観客数が増しても、オーナーは選手に安い報酬しか支払わず、選手が逆らうと、トレードしたり、解雇した。
 二〇世紀に入っても、野球は都市のスポーツとして酒やギャンブル、いかさまの中で育ってきた。行儀の悪い荒っぽいものなのだ。スタンドの観客の喧嘩沙汰、荒れるゲーム、選手と経営陣の反目、八百長疑惑など問題が山積みしていた。一九〇八年に、フロリダ州ウェブスター市では、市長が許可した場合を除いて、野球を禁止するという野球禁止条令が施行されていたほどだ。アメリカン・リーグの会長バン・ジョンソンは「家族で見にこれる健全な雰囲気の娯楽」を公約にしていたが、それが実現するのは、ベーブ・ルースがニューヨーク・ヤンキースで活躍する一九二〇年代になってからのことである。先に引用したデューイの『経験としての芸術』も、彼がニューヨークのコロンビア大学の教授だったころの作品なのだ。
 黒人たちも二〇世紀になると自分たちのプロ・リーグ、黒人(ニグロ)リーグを結成した。スチュアート・フレックスナーは、『アメリカ英語事典』において、「南北戦争後、black は奴隷時代の遺物として嫌われ、黒人は一八八〇年代後半までcolored という言い方を好んだ。一八八〇年代後半から一九三〇年代までは、negro の方が好まれていた。一九二〇年代からはNegro とNを大文字で書いた」と説明している。黒人リーグはポスト・シーズンに大リーグのメンバーと対抗戦をして勝ちこすなど、大リーグに勝るとも劣らない実力・人気を示していた。ちなみに黒人リーグの選手は一九二七年、三二年、三四年の三度来日し、ハーレム・グローブ・トロッターズばりのプレーを見せている。島秀之助や佐山和夫を除くと、日本の野球史に関するほとんどの著作はこの出来事を無視している。素晴らしい投手だったことは間違いないけれども、一九三四年、沢村栄治が、草薙球場以外の三試合に登板した際には、来日した大リーグ選抜チーム相手から一〇点以上も打ちこまれたという事実と同様に。さまざまな苦闘の中、ジャッキー・ロビンソンの大リーグ・デビュー以降、選手を大リーグにひきぬかれ、黒人リーグのチームは一九六〇年までにすべて消滅した。
(4) 戦前の職業野球で華麗な守備で人気を博した名ファーストである中河美芳は特高につけ狙われていたし、近藤貞雄は憲兵に殴られている。しかし、今やプロ野球界が最も保守的かつ反動的な考えの持ち主の住みつく世界の一つになっているのは、職業意識の欠如と言うほかない。体育会的なるものは滅びなければならないのだ。もっとも日本の野球をめぐる(マスコミも含めた)状況は、日本の経済・政治の現状と同様、中央集権的であるのに、中央集権批判するものたちが読売ジャイアンツの応援をしている姿に矛盾を感じざるをえない。
(5) タイトルが個人によって表彰制度として確立されたのは、本塁打王だけではない。一九六四年、オール・スターまで四割で独走した歴代二位の通算五九六盗塁を記録している南海ホークスの広瀬叔功によって、盗塁王がこの年から連盟表彰になった。盗塁は、日系二世の山田伝やウォーリー与那嶺らによって、戦闘的なプレーとして持ち込まれてはいたが、それまで日本では評価されてはいなかった。なお、日本では、打撃三冠のうちのいずれかと盗塁王を同時に獲得したのは、このシーズンの広瀬と九二年の佐々木誠、九五年のイチローの三人だけである。大リーグではホームラン王と盗塁王を同時に記録するパワーとスピードをかねそなえたプレーヤーはウィリー・メイズなどいるが、本塁打王をとったことのあるプレーヤーで盗塁王になったことがあるのはただ一人、ライオンズ時代の秋山幸二だけである。九一年のシーズン、秋山に四冠王(イースタン・リーグでは、七七年にジャイアンツの庄司が記録している)の期待がかかったが、残念ながら、無冠に終わり、また、九五年に、イチローも惜しいところで、ホームラン王に届かず、三冠にとどまった。大リーグでも四冠王に輝いたのはタイ・カッブが、ホームランが評価されなかった時代の一九〇九年に、記録しているだけである。
(6) それゆえ、「一球入魂」や「球けがれなく道けわし」などというイデオロギーを標謗した数多くの野球漫画を書いた水島新司は、やはり、日本野球を歪めた張本人の一人として断罪されてしかるべきである。水島がそれ以前の野球漫画のアンチテーゼだった意義は認める。反宗教的野球こそ長嶋の目指すところなのだ。水島は甲子園大会という偽善かつ欺瞞な馬鹿騒ぎを存続させてしまっていることに加担している。水島は日本野球がこの精神主義を否定することによって支持を得てきたことを見ない。多くの日本の野球選手は水島の漫画を見て育ってきたことは確かである。水島の漫画は勝つことや打つことが中心となっており、そこには美しい敗北であるとか、美しい三振といったものはない。『ドカベン』が人気を博したのは三振王岩鬼の存在のためにほかならないのである。唯一の例外は、長嶋を目標とする真田一球を主人公にした『一球さん』であるが、野球を知りつくした長嶋に対して、野球をまったく知らない一球さんを主人公にするというロマンティック・アイロニーをルサンチマンの解決法としてしまったため、あるがままの肯定によるルサンチマンの克服という真に長嶋的問題にはいたってはいない。そもそも『野球狂の詩』で、水原勇気の投げるドリーム・ボールは、その変化に対して、握りがおかしい。ゆれながら一度浮き上がって落ちるようにしたければ、縫い目に指をかけないでボールを抜き、一四〇キロ以上のスピードで投げなければならないのである。ほかにも、山田太郎のキャッチしたあとにミットを動かすスタイルでは、ストライクをボールにされかねないのに、水島は「山田のキャッチングでストライクをもうけた」などと書いている。大リーグでは、ボールをとったらミットを動かさず、それを審判に見えやすくし、小指がストライク・ゾーンにかかっているようにするのが基本である。こうしなければ、カンニングと見なされ、すべてボールと判定される。スワローズの古田敦也は動かす癖が時々でて、審判からはこの点は評判が悪いが、監督の野村克也も現役時代そうだったから仕方がないのかもしれない。プロ野球選手にもさまざまなヒントを与えてきた水島だけれども、『一球さん』でも、投球を速くするために鉛のボールを投げるトレーニングを平気で描いてしまうのは、あまりにもいただけない。われわれはいしいひさいちのほうを支持する。なお、日本では、大江健三郎の『セヴンティーン』など数多い例外を除くと、言論の自由は保証されている。TOTE HOSE!
(7) 試合開始状態を保存することを目的とする守りを中心とした野球が地味になるのは当然なのである。こうした野球はわかる人にはわかるだけ、すなわち特定多数にのみアピールするにすぎず、反動であり、長嶋以後の野球とは言えない。勝つ野球はおもしろい野球と違うのかという疑問がV9時代のジャイアンツのON以外の元選手たちから投げかけられているが、むろん、勝つ野球はおもしろい野球である。勝つ野球と彼らが呼んでいるのは、実は、負けない野球にすぎないのだ。彼らは、勝つことはONがやってくれるから、負けないことをしていればよかった。だが、ファンは負けない野球を見にボール・パークに足を運ばない。負けない野球とは守りの野球であり、宗教の野球である。犠牲(=生け贄)バントは、その名の通り、アニミズム的儀式と化している。この呪術性が日本の野球の自由主義化・個人主義化を妨げているのだ。負けないという否定語ではなく、勝つという肯定語のもたらす意欲的・反宗教的力強さをファンは望む。森示氏晶が、ライオンズの監督時代、バントを使うとブーイングが起こったのに対して、(大リーグでは、素晴らしいプレーをした選手を祝福するとき、彼の尻を叩く習慣があり、よくそうしていた)ボビー・バレンタインがマリーンズを率いて、バントを多用しても、誰も非難しない。負けない野球は、フランチャイズ制がしっかり確立していないために、はびこっているのだ。東京ジャイアンツの総監督三宅大輔は、一九二五年に発表した『野球』において、「日本では必要以上にバントが濫用されている」と批判している。こういう記述を目にすると、日本の野球はいったい何なのかという絶望感に襲われるのは当然であろう。クリーブランド・インディアンス、セントルイス・ブラウンズ、シカゴ・ホワイトソックスのオーナーとして、画期的なファンサービス−−背番号の上に選手名をつけさせたり、ホームチームの選手がホームランを打つとスコアボードから花火が打ち上げられるなど−−によって、いずれの球団でも観客動員を確実に増やしたことで知られるビル・ピークは次のように言っている。「誤解しないで欲しいんだがね。私はチームが勝てもしないのに催し物をやればお客が入るなんて言ったことは一度もないんだよ。ファンの心理ってそんなもんじゃない。ファンはホームチームと一体になって、地元チームが勝つときは、自分も勝ったと思う。生活のいらだたしさから逃れるんだ。私が関係した球団は勝ったからこそお客が入ったんで、催し物だけじゃお客は呼べませんよ」。結局、チャリティーやボランティアに関する認識不足があの不毛な考えを日本のプロ野球関係者が払拭できない原因なのである。「福岡のドリームゲームのときなんですよ。メジャー出身の選手たちはまったく疲れた姿を見せないんです。フランコにそれで“なんでですか”と聞いたんです。そしたら、そんなこと、なんで聞くのかって顔をされてしまいました。ファンにアピールするという前に、チャリティーに関しての考え方が違うんですね。野球でこれだけいい思いをしているのだから、野球で社会還元をするのはあたり前だろという感じです。阪神大震災のチャリティーと言えば、僕らの地元のためじゃないですか。僕がもっとがんばらなけりゃいけないとそのとき、思いましたよ。だから、少しでも自分をアピールしようと、バックホームの遠投をしたり、盗塁もしました。そうじゃないと、外国選抜チームに対して失礼だと思いましたからね。そういう意味で、僕らに比べたら、まだまだメジャーの人たちの懐の深さを感じます」(イチロー)。一九六九年七月九日の対カープ戦で史上最高のホームスチールを決めたアトムズの武上四郎は、後に、コーチとしてサンディエゴ・パドレスのナ・リーグ制覇に貢献している。その武上を長嶋はコーチに招聘した。従って、長嶋采配非難は呪術への回帰にすぎない。
 一九七四年のW杯西ドイツ大会で、美しいあのジャンピング・ボレーによって「空飛ぶオランダ人」と呼ばれ、「トータル・サッカー」の象徴だったヨハン・クライフは、一九九八年六月八日付『朝日新聞』夕刊において、サッカーは美しくなければならないと次のように述べている。
「サッカーは美しくなければならない。美しいというのは、攻撃的でテクニックに優れ、3点、4点とゴールが生まれ、緊張感があり、見て楽しいサッカーサッカーだ。プロフェッショナルである以上、勝利は重要だが、美しいサッカーを追及していけば、当然勝つ可能性も高まる」。
 Wir hebben hem lief! Hij is mooi! 試合では、神を相手にするわけではないから、当然、誰かがミスをする。そのミスを待っていれば、少なくとも、負けることはない。勝敗にこだわれば、勝負は、必然的に、負けない態度のほうが好結果をとれることになっている。けれども、負けない姿勢は、実は、歴史的に見て、後継者を生めない。力への意志が足りないのだ。歴史は勝つ姿勢を必要とする。勝つ姿勢は神を相手にすることを前提にしているからである。Hoewl het onmogelijk
is, moet ik het proberen.チェスの天才、ボビー・フィッシャーは、神とチェスを勝負したらどうなるかと尋ねられて、「自分が先手なら引き分けだ」と答えている。勝つ姿勢のそうした過剰さが後継者を持てる。ところが、たいていの後継者たちは原因と結果をすり替え、勝つ姿勢を負けない姿勢へとねじ曲げる。負けない姿勢というルサンチマンを勝つ姿勢という健康的な姿へと再創造することが求められる。だから、敗者だけが創造者となりうる。Wat leuk! 七四年大会の決勝戦で、オランダは開始一分にクライフが倒され、PKで先制したものの、ベッケンバウアー有する西ドイツに逆転負けした。けれども、クライフは「いつものわれわれなら、2点目、3点目を取りにいくのに、守りに回ってしまった。美しさが足りなかったから、負けたわけだ。しかし、私はいまでも、W杯の優勝と最優秀選手賞のどちらを選ぶかと聞かれたら、迷わず、世界で一番魅力的なサッカーをした選手に贈られる最優秀選手賞が欲しい、と答える」と言っている。Ik ben heel blij om dat te
horten.醜い日本人は敗因を決して「美しさが足りなかったから」と認めない。日本にはあまりに美しさが足りない。すべての、そうすべてのスポーツにたずさわるものはこのクライフの言葉に従わなければならない。これはスポーツに限らない。Alles moeten zijn
mooi. 美しさは力への意志がもたらすものなのだ。Mooier! Mooier!
 これはプレーヤーに限らない。スポーツに関する作品はそれ以上にひどい状態にある。大きく、故山際淳司に代表される人間ドラマ的表現と二宮清純に代表される実証主義的記述にわかれる。前者は担当記者や友人としての視点であり、後者はコーチや監督、トレーナーからの視線に近い。われわれはその功績や意義を十分に認めるが、この対立が思想史にはよくあるのを知っているので、次に進みたいと考えている。前者が後者の方法論よりも先に登場したのは、コンピューターが発達するまではそのアプローチを試みようにも不可能だったからである。前者は社会現象としてスポーツを理解するファンであり、後者はマニアとしてのそれであるとしても、両者とも目の前で繰り広げられるスリリングなプレー自体からその歴史的価値を読みとることのできるファンから書かれたものがない。彼らはスポーツについて書いているかもしれないが、スポーツをするように書いてはいないのである。そこには文化としてのスポーツという認識が欠けている。彼らには歴史がないのだ。言葉は肉体に訴えるはずなのに、われわれは、彼らの作品を読んでも、疲れもしなければ興奮もしないなど、肉体がまったく無反応であるのに憤りを覚えずにはいられない。力への意志による解釈がまったく起こらない。長嶋はONについて語るとき、王が対象としての長嶋個人と自分自身に言及するのに対して、その関係に着目する。長嶋は、この関係へのまなざし、力への意志により、審美主義から遠く離れている。日本のスポーツ・ジャーナリズムは長嶋からこの姿勢を学ぶべきである。一方、アングロ・アメリカにおけるスポーツに関する作品はそれが前提になっているのである。フロレンティン・フィルムズが九四年に作制した『大リーグ−もう一つのアメリカ史−』はその典型である。九二年にカナダのトロント・ブルージェイズがワールド・チャンピオンになり、優勝旗は国境を渡った。閉鎖的で偏狭な日本人はこんなことを許さないだろう。すべてが忘れられたとしても、あの光景をわれわれは決して失うことはないのだ。われわれは長嶋やイチローを文化財に指定したいくらいなのである。長嶋やイチローによって人々のプロ野球に対する態度が変わったからである。プロ・スポーツはアマチュアに先行していた。アマはプロへの対抗として生まれたが、それはナショナリズムへとつらなっている。そして、アマは、その建て前のために、金にもだらしがない。アマが非難されなければならないのはこれらの点にある。従って、オリンピックやワールド・カップをわれわれは認めない。しかし、その批判にはユーモアを用いる。二〇〇〇年のシドニー・オリンピック水泳の主役は、オーストラリアの若き天才スイマー、イアン・ソープではなかった。主役は「オリンピック史上最も遅いスイマー」だった。赤道ギニアのエリック・ムサンバニは、残り二人がフライング失格したために、男子100m自由形予選一組を一人で泳がなければならなかった。溺れているのではないかと思ってしまうもがくような泳ぎで、もしかしたら足をついてしまうのではないかというわれわれの不安の中、彼は世界中の声援を受けながら、泳ぎきった。タイムは1分52秒72で、200m男子自由形の世界記録より遅かった。観客にスタンディング・ォベーションに応えた後、押し寄せた世界中のメディアの質問に対して、片言の英語で、エリックは答えた。それによると、赤道ギニアの水泳連盟が半年前に発足したばかりで、競泳人口は彼を含め八人しかおらず、国内にプールはリゾート用の20mプール二つしかなく、それも観光用のため、ほとんど使えず、彼自身100mを今回初めて泳ぎきったということだった。それを聞いて、エリックに対して、さまざまなスポンサーから水着・ゴーグルの提供、さらに金銭面の援助が申し出された。同じく赤道ギニアのポーラ・ボローパも、エリック・ムサンバニ同様のウナギ泳法で、女子自由形50mの予選を泳いだ。彼女は、女子サッカーの選手で、オリンピックに参加をするため、突然、白羽の矢がたてられたらしい。彼女に対しても、エリックと同じようにスポンサー契約の話が舞いこんでいる。「人生に遅すぎるということはないでしょう。私もアテネ・オリンピックを目指しますよ」と言っている。商業主義への批判は、そのユーモアによって、商業主義を追及することによって、真に可能になる。アマ・スポーツはこのようにしてとっとと滅びねばならないのである。ただ、世界中の美しい女性たちを見るのが大好きなので、と言うよりも、彼女たちを見ることによってわれわれはハッピーになるので、それに関しては別の機会がなければならない。われわれは外国人女性に対しては好きと大好きしか選択肢を持ちあわせていない。フェミニストが、その点で、われわれを非難する光景は、決して悪いことではない。むしろ、美しい!
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われ等の恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると
  日も暮れよ 鐘も鳴れ
  月日は流れ わたしは残る
手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう
こうしていると
二人の腕の橋の下を
疲れた無窮の時が流れる
  日も暮れよ 鐘も鳴れ
  月日は流れ わたしは残る
流れる水のように恋もまた死んでゆく
恋もまた死んでゆく
命ばかりが長く
希望ばかりが大きい
  日も暮れよ 鐘も鳴れ
  月日は流れ わたしは残る
日が去り 月がゆく
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰って来ない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
  日も暮れよ 鐘も鳴れ
  月日は流れ わたしは残る
(ギョーム・アポリネール『ミラボー橋』)
(8) 大下弘は天覧試合の感想を、プロ野球選手の著作の中で最も美しい『日記』に、次のように記している。「天覧試合。巨人対阪神戦。パシフィックリーグはお休みなのでゆっくり試合経過を見る事が出来た。終戦後、皇太子殿下に親しく御挨拶申し上げた事どもを思い浮かべて唯感無量!!(後楽園にて)長島君立派でした。小山君もまた立派でした。村山君、王君、二人に劣らず立派でした」。天覧試合で活躍していたのはこの四人だけではないが、大下のあげた長嶋・小山・王・村山はいずれもプロ野球の歴史に名を残すプレーヤーとなっている。大下の眼力はさすがと言うほかない。その大下の『日記』において、長嶋は小山と、村山は王と等価に扱われている。長嶋と村山の関係がライヴァル視されるのが、これで後からつくられたメロドラマということは確かであろう。大下の『日記』は、日本近代文学において、最もすぐれた日記文学の一つに数えられるが、日本の未熟なスポーツ・ジャーナリズムの現状ゆえに、残念ながら、非常に手に入れにくくなっている。『日記』はスポーツの関係者が書いた数少ない反美学的作品である。われわれは美学を軽蔑する。しかし、その理由をスポーツ・ジャーナリストはいまだに理解していない。日本の野球をめぐる環境はあまりにもひどい。それは日本人の未熟さそのものなのだ。「日本人はアメリカ人が自明のこととしている栄養と体力との間の一体一の関係を認めない。だからこそ、東京放送局は、戦争中防空壕に避難していた人びとに向かって、体操で飢えた人びとの体力と元気を回復する、などと説くことができた」(ルース・ベネディクト『菊と刀』)。しかし、一方で、ルー・ゲーリックが「私は、日本に大和魂があると聞いて、それを学ぼうと楽しみにやってきた。だが、残念ながら大和魂はどこにもなかった。凡打だと、笑いながら一塁へ走ってくる選手がいた。私は、その選手をぶん殴ってやりたかった。大和魂のために……」と批判していることも、日本人は考慮しなければならない。「サムライというのは、男味を味と思わず、モラルとしてこだわる人のこと。それを男の美学と言う人もいるが、美学とはもともとあほらしいもので、あほらしさをわきまえずに酔っているのでは、本物のあほでしかない。味を楽しめてこそ美学、溺れたら悪徳」(森毅『男文化の行方』)。日本人は合理的である場面に対して非合理的で、非合理が要求されるときにそうする意欲を放棄する。合理をつくした上で、さらに非合理が求められるのである。アメフトのヘルメットのようなフェイス・ガードのついたヘルメットを被って試合に出たチャーリー・マニエルのごとくの日本のプロ野球選手はいなかった。つまり、日本人に欠けているのは知恵にほかならない。「ある言葉の意味とは言語[ゲーム]におけるその言葉の使用(Gebrrauch )である」(ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『哲学探求』)。
 野茂英雄が、オールスターで先発に選ばれた感想について尋ねられた際に、「ファンには申し訳ないと想うのですが、自分が一番楽しみたい」と答えたのを把えて、多くの日本のニュース・キャスターは彼を「アメリカ的発想」の持ち主と評し、「もし日本でなら、聞かれた選手はファンのために頑張りたいと返答したに違いない」と言っていたが、これは完全な事実誤認である。オールスターはシカゴのある少年が「ベーブ・ルースがカール・ハッベルの球を打つような試合が見たい」と呟いたことがきっかけで一九三三年に始まったのであって、それを知っているアメリカのプレーヤーは「ファンのために全力でプレーしたい」と述べることはあっても、「緊張感を楽しみたい」と答えるならまだしも、野茂のような発言することはまずありえない。アメリカ人は、オールスターの前、摂氏四〇度以上の中、セレモニーに参加した約一六〇人のリトル・リーガー一人一人と手をあわせていた野茂を承知していたためかもしれない。そして、試合後、日本のオールスター以上にうまく大役を果たした野茂は「投票で選ばれた選手が、ケガでもファンのために出場しているのが印象に残った」とコメントしているから、オールスターというものをこころから理解したように思われる。アメリカにおいてファン・サービスはエンターテイナー的資質が要求される。黒人リーグで通算二千勝以上をあげ、五〇歳を超えてから初めて大リーグのマウンドに上った伝説的大投手サチェル・ペイジは、「ダイヤモンドさえあれば、刑務所だろうと、農場だろうと、どこででも投げるさ」と豪語し、勝敗には無頓着で、とにかくファンへのサービス精神が旺盛だった。実際、彼は歌と踊りが得意、コメディアンとしての素質はかなりのものだったと伝わっている。一方、玉木正之が、『プロ野球大事典』において、コメディアンとしての才能に恵まれた坂東英二について、「私事ではあるが、徳島県出身のわたしの父は、のちにテレビのブラウン管のなかで立て板に水の如く喋りまくっている男と、かつての徳島商高のエースとが、同一人物であるとは、絶対に認めようとしない」と書いているように、日本の伝説的投手の沢村栄治にコメディアンの才能があったとは考えられないだろう。おそらく日本人の言う「楽しむ」という言葉の意味はアメリカ人と違うのである。「真理も、笑いながら、語られるべきものである」(エラスムス)。従って、目的はともかく、インフィールド・フライを理解できない人たちにメディアは大リーグに関するコメントを求めるべきではない。
 日本では短い現役生活には暗さだけが目立つが、アメリカの場合、明るく、どこかほのぼのとさえしている。デトロイト・タイガースのエースだったマーク“ザ・バード”フィンドリッチはデビューした年にオールスターで先発するほどのピッチャーだったが、五シーズンで引退している。膝まづいてマウンドを両手でならし、ボールに話しかけ、ボールを投げる度に、両腕をはばたかせ、膝を二回屈伸するバードの姿にデトロイトのファンは「ウィ・ウォント・ザ・バード」と大合唱を送ったのである。しかし、彼は一九勝九敗四完封防御率二・三四で、新人王に輝いた翌年から、肘や肩の故障に苦しめられ、四年間で一〇勝一〇敗しか残せなかった。その後、庭師になったマークは、大リーグ時代を「なんらかの仮定に立って物事を見るのは好きじゃない な。ぼくは、自分がかつて成し遂げた仕事にも満足しているが、今の自分にも満足し ている。なにかが終わってしまったときには、こういうしかない。終わった。僕はあの場所から出てきたんだって」と振り返っている。また、ロサンゼルス・ドジャースのサンデー・コーファックスは、二七勝をあげて二年連続最多勝、防御率一・七三で五年連続最優秀防御率という成績を残しながら、シーズン終了後、肩の痛みを訴えて 引退している。ナ・リーグの最多奪三振記録、四年連続ノーヒット・ノーラン−−その四年目は完全試合だった−−をもマークしたサウスポーは、このとき、まだ三〇歳だったが、「髪に櫛を入れられなくなる前に引退したい」と言い残し、現役を去っていった。これは、アメリカにおいては、スポーツが文化であると認識されているのに対して、反文化的な日本人がスポーツをもつねに反文化的なものにしてしまうからであろう。「楽しみの点からとらえるのなら、もっと文化的に向上し、多くのよろこびがもたらされねばならない。(略)西欧の国では、都市ごとにスタジアムがたてられ、老人から子供まで、だれもがスポーツを楽しみ、生活をエンジョイしている。スポーツをとおして、機能とやすらぎを体で感じ、こころに吸収している。それが人間の生活であり、文化である。僕たちも、そのようにスポーツを楽しみたい」(虫明亜呂無『スポーツ人間学』)。「おそらく日本人の感受性がどこか安直に、なにかによりかかりやすくできているのであろう。スポーツを好きそうでいて、実は意外なほどスポーツに愛着をもっていない国民性がそうしからしめるのであろう。スポーツに名をかりたドラマだけが愛好されるのであろう。段取りと筋書きと状況だけが常に関心の的である」(虫明亜呂無『スポーツへの誘惑』)。従って、女性が男性と一緒にプロ野球でプレーする光景をわれわれは待ち望んでいる。
  THE CONSTITUTION OF JAPAN  CHAPTER U.
RENUNCIATION OF WAR 
Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on
justice an
d order, the
Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the
threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land,
sea, and ai
r forces, as
well as other war potential, will never be maintained. The right of
belligerency of the state will not be recognized.
「しかし芸術と蛮行を分かつものは、『遊び』の要素である。そしてアイロニー喜劇の重要な主題は、人身御供『ごっこ』であるように思われる。笑いそのものにおいても不愉快なことからの解放、時には恐ろしい事からの解放が非常に大切であるようだ。このことは、同時に多数の観客を相手とする芸術形式、特にドラマや、もっとはっき りした例としてスポーツの場合には、特に明瞭にわかることである。また注意すべき ことは、人身御供のまねをすることと、旧喜劇について言われるよう、歴史上の犠牲 祭儀起源説とは、何も関係がない、ということである。この祭儀のすべての特徴−−王子、死の擬態、死刑執行人、犠牲者のすりかえなど−−をはっきり示しているのは、アリストパネスよりもむしろ、ギルバートとサリヴァンの『ミカド』の方なのだ。人身御供の祭儀をその起源と考える根拠は少しもない野球においても、アンパイアは純然たるパルマコスなのであって、まるで実際野球の起源がそのようであったかのようである。審判は罰あたりの無頼漢、バラバ顔負けの大泥棒であり、彼に睨まれるとゲンが悪くなる。負けているチームのファンたちは、彼奴を殺せとわめく。これは遊びであるから、モッブ的な感情は、いわば蓋のない大鍋のなかで煮えたぎっている。実際にリンチを行う暴徒の場合には、この感情が道義感(とブレイクなら呼ぶであろう)という溶鉱炉のなかに密閉されるのである。ローマ時代の剣闘競技では、観衆を楽しませている人々に対して、実際に生殺与奪の力を振うのであるが、およそ劇形式の野蛮かつ悪魔的なパロディのなかでも、これこそ恐ろしくもっとも徹底したものであろう」(ノースロップ・フライ『批評の解剖』)。日本文化にはこの「遊び」の要素がない。日本人は「遊び」を不謹慎と考え、暴力に対して最も甘い国民である。ベースボールでもそれが表われている。何しろ、審判に暴力をふるって平気でいるプレーヤーや監督、コーチがいるのだから。3Aからやってきたマイケル・ディミュロ審判が、日本プロ野球の暴力に直面したことにショックを受け、シーズン途中で辞任し、帰国してしまった。西村欣也は、この事件をめぐって、一九九七年六月一〇日の『朝日新聞』朝刊において、「裁定に異議を唱えることが許されない根拠は何だろう。『審判の権威』をあげる人がいる。が、権威は二次的に生まれたものだ。審判の裁定に異議が許されないのは、審判がミスを冒すことを前提にしているからだ。『審判がミスを 冒しても、審判に従う』。それは、野球というスポーツが生まれた時からの、ある意味でとても人間臭いルール、なのだ」と書いている。われわれは、正直、普段の西村の意見にすべて賛成しているわけではない。けれども、マイケル・ディミュロ事件に関して、さまざまなメディアが言及したが、西村以外のものはおそろしく見当はずれだった。西村の適確さには経緯を表しながらも、この貧困さ、すなわち「哲学の貧困」(マルクス)にはさすがにわれわれは唖然とせざるを得なかった。もちろん、大リーグも最初から審判の地位が確立されていたわけではない。かつては審判は選手や監督、コーチだけでなく、観客の暴力にもさらされていた。そして、観客の暴力によって命を落とした審判が、少なくとも、二人もいたのだ。さまざまな人々の地道な努力により今の審判の地位があるのである。『シカゴ・トリビューン』は、「フィールドで一番偉いのは、日本では監督だ。彼の言葉は法律であり、激高して選手を平手打ちにしたりする。アンパイアは判定者ではない。せいぜい正確さを期待されている帳簿係か……」と皮肉った。われわれは寛容でなければならない。なぜならば、われわれは絶対ではなく、ミスを冒すからだ。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(『ヨハネによる福音書』八章七節)。審判をめぐるトラブルは、これ以降も尽きない。メディアはつねに審判を非難ばかりしている。それに対し、豊田泰光は、二〇〇一年八月二十三日付の日本経済新聞に「野球には誤審はない」という次のようなコラムを寄せている。「16日のヤクルト−横浜戦の判定をめぐり、一部スポーツ紙に”誤審”の大見出しが躍ったが、野球には原則的に誤審はないということを確認しておきたい。横浜・佐伯の左翼へのライナーをダイレクト捕球したかどうかが、問題になった。ビデオで見ると横浜の主張通り、捕球前にバウンドしているけれど、野球における『事実』は違う。審判がアウトといえばアウト。テレビを見たファンには納得してもらえないかもしれないが、フィールドはビデオとは別の世界と思っていただくしかない。審判にも事後処理の不手際があったとはいえ、マスコミまでお茶の間感覚で騒ぎたててはいけない。 審判をビデオと競わせても仕方がないだろう。大相撲の判定の参考にビデオが用いられて30年以上になるけれど、機械の視線を横目に仕事をする行司さんが気の毒な気がする。人の目による裁きで球史は編まれてきたし、それがいいところだと私は思う。例えば西鉄が巨人を逆転で下した1958年日本シリーズでの小渕泰輔の三塁線二塁打。第5戦の九回裏に飛び出したこの一打で西鉄は生き返るのだが、ビデオで見たらファウルだったかもしれない。ヤクルト-阪急の78年日本シリーズ最終戦。大杉勝男が放った左翼ポール際の本塁打もわからない。いい出せばきりがないが。どんな大勝負であれ、我々は判定のみを事実としてのみ込んできた。『長嶋ボール』『王ボール』というのがあった。追い込まれてからのきわどい球がONの場合、ボールと判定されるというもので、サンケイ時代、味方投手が何度も泣かされるのを見た。だがファンの多くが見逃し三振でベンチに帰る長嶋、王を見にきたのではなかったと思えば、目くじら立てて論じられるものでもない。すべての判定を機械任せにして、人間が裁くところに生じる陰影の余地をなくしてしまっては、野球もつまらなくなるのではないか。審判いじめはやめよう。判定のミスより、采配やプレーのミスがはるかに起こりやすい敗戦の要素なのだから」。もう少し目分量を信じるべきである。絶対的なものを信じることは、結論だけがすべてであるため、たんなる目的論的視点である。過程が重要なのだ。暴力は、結果偏重が蔓延するときに、起こる。「われわれがたがいに赦しあうべきことのほうがいっそう明らかである。なぜならば、われわれは脆弱で無定見であり、不安定と誤謬に陥りやすいからである」(ヴォルテール『哲学辞典』)。日本人はこの偉大なヴォルテールの精神からほど遠い。だから、日本文化にはオリジナルなものが何もなく、オカルト文化である。オリジナルがないことにコンプレックスを抱いているので、「遊び」の要素に欠け、日本文化は排他的である。本来は、その逆の姿勢によって、初めて、日本文化が肯定的な力を持てるのだ。長嶋はこのオリジナリティのなさにオリジナリティを認める。オカルトにもそうだが、長嶋は最も暴力に否定的である。落合博満もこの非暴力主義を理解している一人である。これだけでも、日本人は落合には敬意を示さなければならない。そのため、われわれは恐るべき量の映画を見ている落合博満が映画に関する批評を著わしてくれることをこころ待ちにしている。それは、おそらく、映画以上に映画的な作品になるに違いない。
 愛があれば死ねる、生きることはできなくても、
 たとえ墓碑や枢の飾り台に向かなくても
 詩にはなるだろう、二人の恋物語は。
 たとえ年代記にはならなくても
 ソネットの中に、二人の美しい部屋をつくろう。
 精巧な骨壺は、宏大な霊廟にも
 貴い人の灰にふさわしい。
 そしてひとはみな、この賛歌によって祝うだろう。
 愛ゆえに二人が聖列につらなることを。
 そしてひとはみな、この賛歌によって祝うだろう。
 愛ゆえに二人が聖列につらなることを。
 また祈願するだろう、聖なる愛ゆえに
 たがいの安らぎの庵となられた御二方よ。
 愛ゆえに安らぎを得た方々よ、今の世の狂乱の愛のため、
 世界の魂を集約し、鄙も、都も、宮廷も
 その輝く瞳にこめた方々よ
 (その鏡、その眼鏡は
 すべてを縮集する)。
 天よりもらいうけてください
 御二人の愛の鑑を!
(ジョン・ダン『聖列加入』)
 審判をめぐる日米の見解の相違は「正義」と「ジャスティス」の違いに似ている。”Justice”はよく「正義」と訳されるが、本来の意味は「公正」である。”Justice”は”just”から派生した単語であって、”fair”の類義語である。正しさは、むしろ、”right”であり、「正義」は”rightness”の方がふさわしい。日本国憲法の前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」とあるが、この英訳は” trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world”であり、”justice”は「公正」である。アメリカでは「公正に」ゲームを運営するために信販を置いているのに対し、日本では審判に「正しさ」を求めている。関係において公正であるか否かを判断するのではなく、絶対的基準に照らし合わせる正義を審判に課している信念があるから、VTRの導入が選手や監督、ファンからも当然視されてしまう。しかし、ゲームは相手があって可能になる相対的なものである。正義は馴染まない。
(9) 清水義範は、『いわゆるひとつのトータル的な長嶋節』において、もし長嶋が教師なら、成績が大きく下がってしまった生徒に対して次のように言うだろうと書いている。「うーん。どうしちゃったんだろう。成績がほら、こんなに下がっているんだけども、まあそれは確かに、人間誰だって調子がどうも出ない、スランプだ、という時もあるんだからね、きみの場合もいわゆるそういうことかもしれないと先生思うんですね。まあこれは先生見てて思うんだけど、うーん、きみは本当はやればもっとできる、成績が上がって当然というひとつの基本的な学力的なものを十分に持っているわけで、ただどうなんだろう、それがひとつ結果的な面に出てきていないだけなんですね。ですからやればできるはずなんです。もう少し努力をしてみせるというね、そのことが先生、きみのトータル的な学力を大きくのばすことになると信じているんだ。うん。まあ、この話はこれくらいにしようね。とりあえずその元気で、明るく学校のですね、生活を楽しんでいってほしいと、先生は思っています」。
(10)"The
difficulty we are confronted with is not, however, that of understanding how
Greek art and epic poetry are associated with certain forms of social
development. The difficulty is that they still give us aesthetic pleasure and
are in certain respects regarded as a standard and unattainable ideal. 
 An adult cannot become a child again, or he becomes childish.
But does the naivete of the child not give him
pleasure, and does not he himself endeavour to
reproduce the child's veracity on a higher level? Does not the child in every
epoch represent the character of the period in its natural veracity? Why should
not the historical childhood of humanity, where it attained its most beautiful
form, exert an eternal charm because it is a stage that will never recur? There
are rude children and precocious children. Many of the ancient peoples belong
to this category. The Greeks were normal children. The charm their art has for
us does not conflict with the immature stage of the society in which it
originated. On the contrary its charm is a consequence of this and is inseparably
linked with the fact that the immature social conditions which gave rise, and
which alone could give rise, to this art cannot recur". 
 
「けれども困難は、ギリシャの芸術や叙事詩がある社会的な発展形態とむすびついていることを理解する点にあるのではない。困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお芸術的なたのしみをあたえ、しかもある点では規範としての、到達できない模範としての意義をもっているということを理解する点にある。
 おとなはふたたび子供になることはできず、もしできるとすれば子供じみるくらいがおちである。しかし子供の無邪気さはかれを喜ばさないであろうか、そして自分の真実さをもう一度つくっていくために、もっと高い段階でみずからもう一度努力してはならないであろうか。子供のような性質のひとにはどんな年代においても、かれの本来の性格がその自然のままの真実さでよみがえらないだろうか? 人類がもっとも美しく花をひらいた歴史的な幼年期が、二度とかえらないひとつの段階として、なぜ永遠の魅力を発揮してはならないのだろうか? しつけの悪い子供もいれば、ませた子供もいる。古代民族の多くはこのカテゴリーにはいるのである。ギリシャ人は正常な子供であった。かれらの芸術がわれわれにたいしてもつ魅力は、この芸術が生い育った未発展な社会段階と矛盾するものではない。魅力は、むしろ、こういう社会段階の結果なのである、それは、むしろ、芸術がそのもとで成立し、そのもとでだけ成立することのできた未熟な社会的諸条件が、ふたたびかえることは絶対にありえないということと、かたくむすびついていて、きりはなせないのである」(マルクス『経済学批判序説』)。
 大下弘は、『日記』において、「『大人になると子供と遊ぶのが馬鹿らしくなる』と人は云ふかも知れないが、私はそうは思はない。子供心にかへるのが恐しいから云ふのだろう、余りにも汚ない大人の世界を、子供の世界を見たばかりに反省させられるのが嫌なのかも知れぬ。私は其の反対だ、子供の世界に立入って、自分も童心にかへり夢の続きを見たいからなのだ。子供の夢は清く美しい。あへて私は童心の世界にとびこんでゆく」と記している。大下や長嶋、落合の系譜の後継者であるイチローはとにかく辛いものが好きで、その左脳と右脳が混乱してしまうような刺激によってあの独特のバランス感覚を育てている。飛び散る汗やほこりっぽい泥のまったく似合わないイチローの気だるいバッテイング・スタンスは「夢の続き」の感触をわれわれに伝える。ピッチャーがモーションに入り始めると、彼の細身の体は、寝起きのときのように、気だるく動き始める。振り子のごとくゆれる彼の右足は、催眠術師の時計のような効果を与え、見ているものを夢うつつの状態に誘う。右手の掌でグリップエンドを包みこんだイチローのバットがボールを把え、高いミート音があがった瞬間、ハッとしてわれわれは夢から覚める。すると、鋭い打球は野手を嘲笑いながら、もうはるかかなたに飛んでいってしまっている。そして、イチローは、現実に戻ったファンの歓喜の世界の中、優雅に走っていくのである。この作品の中で批判してきたプレーヤーたちを、そのプレーの素晴らしさゆえに、われわれは賞賛する。彼らも不可欠なのだ。大下だけでなく、川上も、長嶋も、王も、落合も、多くの(元も含めた)選手たちが、引退後、子供たちに野球教室を開いた。おそらく「夢の続き」を見たかったからだろう。イチローもそうするに違いない。sit difficile; experiar tamen.われわれはそれを待っている。「もし私たちがたった一つの瞬間に対してだけでも然りと断言するなら、私たちはこのことで、私たち自身に対してのみならず、すべての実存に対して然りと断言したのである。なぜなら、それだけで孤立しているものは、私たち自身のうちにも、事物のうちにも、何一つとしてないからである」(『権力への意志』)。
参考文献
T単行本
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(10) ナンバー・編、『巧守巧走列伝』、文春文庫、一九八九年
(11) ナンバー・編、『熱闘! プロ野球三十番勝負』、文春文庫、一九九〇年
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(21) 佐山和夫、『黒人野球のヒーローたち』、中公新書、一九九四年
(22) 島秀之助、『プロ野球審判の眼』、岩波新書、一九八六年
(23) ヨハン・ホイジンガ、『ホモ・ルーデンス』、高橋英夫訳、中公文庫、一九七三年
(24) 青田昇、『サムライ達のプロ野球』、文春文庫、一九九六年
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(3) 「大リーグに行こう」、『Number』三七四号、一九九五年九月一四日